|種子島火縄銃保存会 福井清信さん|
天文12年8月25日(1543年9月23日)、ポルトガル商人が乗った中国船が種子島に漂着。時の島主種子島時尭(たねがしまときたか)はポルトガル商人が携えていた火縄銃2挺を大金で購入し、鍛冶職人八板金兵衛に鉄砲製造を命じた。良質の砂鉄を採取することができた種子島では古くから製鉄や鍛治が盛んであり、その技術はかなり高かったようだ。八板金兵衛はわずか1年で国産火縄銃を完成させたとされている。火縄銃はやがて種子島から全国にひろがりこの国の勢力地図と歴史を変えていく。この島は歴史を変える起点となったのだ。それを今に伝える人々がいる。
我々はイベント屋じゃない!!
はじめて火縄銃の試射を見た時、その轟音に驚いた。まるで本物の銃だと思ったとその時の印象を話すと、種子島火縄銃保存会会長の福井清信さんは困惑気味の笑顔で話しはじめた。
「ふふふ、だってあれは本物の火縄銃ですよ。本物です!」
そう言えば、あるイベント会場で実際に試射に使われた火縄銃を手にしたことがあった。これがレプリカかと思うくらいずっしりと重かったことを記憶している。火縄銃というものに本物とレプリカがあるという思い込みがある。実射ではなく空砲だ。本物であるはずがない、と。
「そうですよ。実弾、つまり鉛の弾を込めれば、ちゃんと殺傷能力のある銃なんです。もちろん私たちがイベントの演技で試射するのは空砲ですけどね(笑)本物の銃なんです」
観光やまちおこしのイベントで火縄銃の試射、演技をしている人たちは、ボランティアが集まって演技をしているのだと思っていた。使っている銃はレプリカだとも。しかしその認識がすべて誤りだったことに気づいた。
「まあ、ボランティアというところはそうですけれど、イベントでの演技を目的にやってるわけじゃない。我々はイベント屋じゃないです!!」
確かに、いただいた名刺には〈種子島火縄銃保存会〉と記されていた。保存会の前身である「種子島火縄銃同好会」ができたのは50年前の昭和46年(1971年)。その当時、国産火縄銃発祥の地種子島は、その後の発展を担った堺市と交流があったそうだ。その交流をひろげるためにも保存会をつくろうということになった。
50年経った今、会員数は23名、平均年齢は50代。最年少は30代だそうだ。
保存会は入りたいから入るという簡単なものではない。まず、保存会に入るには自分で火縄銃を所有することが条件になる。メンバーはすべて自分で火縄銃を購入しているのだ。一般人の感覚で言うとまちおこし、地域おこしの一環として演技していると思っていた。もっと簡単にできるものだと。まさか自分で火縄銃を購入してまでとは思わない。
「だって、剣道とか弓道をやるなら武具は全部自分で揃えませんか?」福井さんは終始冷静に受けてくれる。「武術だととらえるとわかりやすいんじゃないかな。種子島流という砲術の流儀があると。そういう意味でいうと試射は演武になるわけです。我々は伝統武術だと思っています。保存会としてはその流儀を継いでいくことを本来の目的にしているのです。目的というか、存在意義ですね」
そう言えば演武を見ていると、立って撃つ、伏せて撃つ、片膝を立てて撃つ、座って撃つなどという型がある。それをちゃんと受け継いでいく。そういう気概が言葉の端々ににじむ。
「まちおこしの材料にということも確かにあるけれど、我々にとっては流儀保存がいちばんなんです。まちおこしのイベントは後からついてくるもの、副産物です」
つまり演武そのものを目的にするのではなく、演武も含めて流儀保存のための訓練・修練の一環なのだ。
「ね、我々はイベント屋じゃないでしょ」
まさに種子島の火縄銃、流儀としての種子島流砲術を今に伝えようとする人々なのだ。
本物故の難しさ
福井さんたち保存会の活動には様々な制約がある。火縄銃を購入し保存会に入り、すぐに自由に試射ができるわけではない。
「銃は本物。いくら火縄銃でも殺傷能力はある。ということは規則や制限が厳しいということです。火縄銃は刀剣と同じで登録だけでいいけど、銃を買って、届けを出して、登録鑑札を持って……。さらに火薬を買う時に警察の許可がいる。それぞれの銃で必要な火薬の定量があります。たとえば私の銃なら7gというふうに。空砲を何回発射するかで、購入する量に許可証を出してもらう必要があります」
空砲とはいえ銃。殺傷能力のある武器だから慎重になって当然だ。福井さんの言葉にはその責任の重さがある。
さらに、演武としての試射についてもすべてに許可が必要だ。場所、時間、試射する人数、目的など様々な項目でチェックされ、最終的に許可が下りる。
「空砲でも近くで発砲すれば怪我をすることもある。慎重になって当たり前ですよ」
イベントに招かれて演武実演の機会も多い。しかし22名いる会員が総出で演武することはないという。
「警察の許可が下りませんよ。多くて5名かな。毎年8月に西之表市で開催される鉄砲祭りでも10人ですね。それがせいぜい(苦笑)」
鉄砲伝来の地にちなんだイベントですらそうなのだ。本物故の難しさと言えばいいかもしれない。福井さんによると日本全国で火縄銃の保存会は50以上あり、多くがイベントでの演武を砲術普及やまちおこしの一環として行っているそうだが、市街地を行進しながら試射するのは種子島と堺だけだそうだ。他は公園や城址、特設された会場で行われると。
「まちを行進しながらの演武、試射はぜひ続けさせていただきたいと思っています」
いろいろと企画を立てたりするがなかなか厳しい。試射する機会も減ってきたそうだ。その上事故、負傷者が出るとさらに規制が厳しくなり流儀保存にも支障をきたすのは目に見えている。だからこそ警察の指導のもと厳格に実施している。
「うちの存続だけじゃないです。どこかの保存会が事故を起こせば全国的に厳しくなる。だから1回1回の試射、演武にはとても大きな責任が伴います。特に種子島でそんな事故を起こすなんてとんでもないことですよ」
その言葉の裏には鉄砲伝来の地、国産火縄銃発祥の地という自覚を持って、他にも増して厳格に運営しているという自信と誇りが隠されていると思った。そこには
「この国の歴史を変えるきっかけをつくった島だ」
という自負があるのだ。
受け継ぐ難しさ
本物故の難しさは規制の面だけではない。これはあらゆることに関することだが、後継者を育てるということだ。
会員の平均年齢が50代。高齢化は進んでいる。一番のハードルは火縄銃を自分で購入しなければならないことだ。人のものを借りるというわけにはいかない。
ところで、火縄銃は今もつくられているのだろうか。刀剣は美術品としてつくり続けられているが……。
「残念ながら、現在火縄銃はつくられていません」と福井さん。ということは……。
「過去につくられたいわゆる古物を購入するということですね。値段としてはピンからキリまであります。40、50万円から200万円以上するものもあります。しかも値段の変動があります。安い時も高い時もある。なかなか難しいです」
入会前の若い人には一層難しい、高いハードルだ。
「銃購入に関しては保存会でもサポートします。ルートを確保したり、いいものがあれば保存会で購入しておいたり。できるだけハードルを低くする努力もしています」
しかし、新しい若い会員を獲得できたとしても、それがストレートに流儀を守ることにはつながらない。
「すでにつくっていないわけですから、古い銃を使いながら守っていくという作業も大変なんです。火薬を使うわけですから長年の間に鉄だって劣化していく。そのメンテナンスも基本的に自分でやります。手に負えない場合は専門家に発注することもありますが、自分の武具は自分で手入れする。それって当然のことですから。SL機関車の動態保存と同じですよ。使いながら保存していく」
流儀保存をきっちり継承していく。火縄銃というものを大切に保存していく。そういうコツコツと努力を重ねることが一番大切なのかもしれないなと思った。
「それでも」と福井さんは続けた。「そういう心構えがあり、銃を購入する経済的なゆとりがあっても、誰でも迎え入れるというわけでもありません。会員全員の承認と合意がなければ入れません。自分がやりたいというだけでは不十分なんです」
それは様々な規制を厳格に守り、決して事故を起こさないという自覚、その上で流儀の歴史と伝統、さらにはこの国の文化の一翼を担う責任と使命感を共有するということに他ならない。
50年目の節目に描く流儀の未来
種子島の砲術をこれから先の歴史の中でどのようにしていくのが理想的なのか? 保存会では今このことに知恵をしぼっている。
「鉄砲伝来からいうと478年。500年が間近に迫っています。その歴史と伝統を守るため立ち上げた保存会も2022年には50周年の節目にあたります。我々としては行政とも話し合いを重ねながらこの節目を迎えたいと思っています」
50周年をいかに迎えるか。様々なプランが議論されている。
「大きなことをやろうとしても無理があります。運営はボランティアで経費は年間12000円の会費で維持されています。もちろん行政からの補助もありますが。それで何をするか、ですよね。周年事業というよりも、そこからさらに流儀の未来をどう描くかが大切だと思っています」
種子島の歴史、種子島が歴史の中で果たしてきた役割を改めて知ってもらう。子どもたちに火縄銃の存在を知らせる。その中で種子島火縄銃保存会が継承し守ろうとしている流儀を世にひろげていく。そのことだ。
「言葉で理屈を重ねるのは簡単ですが、それを実際に行動に移していくのはとても難しいと思っています。でも一つひとつ積み重ねるように前に進んでいきたいと思います」
取材を終えた時の福井さんの表情は清々しかった。
好きというだけではだめだ。鉄砲伝来の地、種子島に住んでいるという思いだけでもだめだと福井さんは言った。しかし、船で着いた時に鉄砲隊の号砲で迎えられると、ああ、鉄砲の島に来たんだなあと実感するのではないだろうか。迎えられる側がそう感じていることが伝わるから、迎える側も力が入るのだろう。根底には「好き」があると思った。迎える側は種子島が好き。鉄砲が好き。人を迎えるのが好き。迎えられる側は盛大に出迎えられるのがうれしい。旅の印象も強く残る。しかも歴史で学んだ本物の火縄銃で。そういう出会いが「好き」なのだ。
かつて戦国の世、火縄銃は種子島と呼ばれていた。
歴史が種子島の存在を全国に轟かせたのだ。
ここは歴史を変えるきっかけをつくった島なのだ。
宇宙の島になっても、サーフィンの島になっても。
ここが鉄砲の島である歴史は変わらない。