|種⼦島松寿園の松下栄市さん|
種子島で茶葉を生産しているのは知っていたが、種子島大学の講座「意外と知らない種子島茶の世界」の中で、全国でも有数の茶葉の産地であることをはじめて知った。
鹿児島の茶葉生産発祥の地、西之表市の番屋峯地区。ここで作られた一番茶がその年の全国の茶葉の価格や生産量の目安になっている。また、栽培している茶葉の品種が多いことも特徴で、種子島の気候風土にあった新しい品種が数多く生まれている。なぜ種子島のこの地が、茶業業界にとって重要な地になったのか。そのヒントは100年を越える開拓の歴史にあった。
番屋峯の歴史を語ってくれた松下栄市さんの力強いお話しから、先祖の開拓魂を今に受け継ぎ、品質にとことんこだわった茶業にかける熱い想いが、ひしひしと伝わってくる
そのはじまりは明治42年に静岡から種⼦島に移住した茶農家の奮闘努⼒によるものだ。それ以前に種⼦島に赴任していた静岡出⾝の役⼈が、この島はお茶の栽培に向いていると⾒抜き、故郷の茶農家に種⼦島の開拓をすすめた。「よそ者の⽬」が島の可能性に気づいたのだ。
最初に移住した松下助七は島を歩き、適地を探し回った。「ここ番屋峰の⼟地を⾒つけるまでは⼤変な苦労があったと思います。茶の栽培に向いているのではないかということだけで、具体的で詳細な情報ではなかったわけですから」
そこには島の⼈々の容認と協⼒があったことが容易に想像できる。
「深い⼭の中で道に迷った夜、狭い住居の⼀部を快く貸してくれた上、寝具がないからと遠くの家まで借りに⾏ってくれたこともあったそうですよ。島の⼈たちが受け⼊れてくれたからこそですね」
そうして番屋峰の地にたどり着き⽂字通り根を下ろしたのだ。借地の交渉にあたってもよそ者だからという理由で不利は無かったともいう。
そうして種⼦島のお茶の歴史ははじまった。
お茶をつくる、種⼦島をつくる、そんな毎⽇
松下栄市さんは松下助七から数えて4代⽬にあたる。⽇々お茶の栽培に汗を流すが、種⼦島DNA を受け継いで茶農家と種⼦島の未来を⾒据えている。
「種⼦島のお茶はいまでこそ⽇本⼀早い新茶として知られてきたけど、味の⽅はあまり認められていない」
松下さんは少々不満気に話す。それもそのはず2013 年には「かごしまうまい茶グランプリ2013」で知覧茶などの有名ブランドと競いグランプリを受賞した。
「もうひとつ前に⾏きたいんだけど⾏けない。味には絶対的な⾃信を持っている。だけど産地としての知名度は低い。いや、決定的な知名度不⾜なんです」
松下さんは⾔う。確かに知覧茶は知っているが、種⼦島茶は知らないという⼈は多い。松下さんは独⾃の模索をすることに決めた。それまではほとんどが荒茶での出荷だったが、「松寿園」というブランドを⽴ち上げ⼩売に打って出たのだ。
産地全体のONE TEAM で知名度を⾼める取り組みを進めるべきだと考えたが、産地の思いをひとつにまとめることは予想以上に困難だった。
「じゃあ思いがひとつにまとまるまで、時間をかけて議論を繰り返すのか……。そんな時間的猶予はないと思いました。そんなことしてたら、いつまでたっても種⼦島茶の存在を世界に知らしめることはできないでしょう」
だから松下さんはひとりでも前に進む決断をしたのだ。
「確かに荒茶を⼤量に⽣産して相場の値段で出荷するのが楽に決まっている。だけどそれでは相場に左右され、買い⼿に左右され、産地として⼀層の発展が望めるかと⾔うと、否定的にしか思えない。だから私は⾃らのブランドで攻めに転じることで、産地全体の知名度を上げたいと思いました」
産地の発展がなければ、⾃らの繁栄も望めない。
⾃らの繁栄がなければ、産地の発展も望めない。
それがなければ種⼦島全体の発展もないということなのだ。
松下さんはさらにセルフプロデュースという新しい扉を開いた。
松下さんのお茶をつくる毎⽇は、産地を盛り⽴て新しい種⼦島をつくる毎⽇なのだ。
種⼦島⼤学はこの松寿園と松下さんの新しい取り組みを全⼒で⽀えたいと考えた。そうすることで、種⼦島DNA の本質を学ぶことができるのではと、そうして種⼦島の未来への扉を⼀緒に開きたいと思ったのだ。
松下さんとが撒く明⽇への種⼦(たね)
松寿園と松下さんは様々なお茶商品を開発してきた。ティーバッグのお茶はもちろん、種⼦島産の⽣姜を使った紅茶、お菓⼦やケーキ、パンに練り込むこともできる粉末茶等々、そのラインアップは爆発的に増えている。
「レモンティーならぬタンカンティーなんかも考えています。タンカンは種⼦島の特産品だからね」(松下さん)
その躍進に⼀役買っているのがパッケージやラベルのデザインだ。I ターンで種⼦島に移住したデザイナーに依頼した。「よそ者の⽬」に託したのだ。
「⾃分たちでは気づかないことを、外の⼈は気づかせてくれる。そういう⼈たちの⼒をどんどん取り⼊れたいです。お茶はお茶農家や産地だけのものじゃない。種⼦島全体のもの。じゃあいろんな分野の⼈の⼒でどうやったら売れるかを考えたらいいでしょう」
⼩売部⾨は松寿園全体の売上の4割を超えた。荒茶での出荷がほとんどだった頃からすると、⽬をみはる進化だと⾔っていいだろう。
松下さんは⾔う。
「闘う体制はできていると思う。あとはアイデアやデザイン⼒、企画⼒、実⾏⼒。そうなると外の⼈たち、若い⼈たちとのタイアップが⽋かせないと思う。しかも島の枠内で物事を考えるんじゃなくて、島の殻をぶち破ってくれるようなよそ者のみずみずしい感性を持った若い⼈とのつながりを⼤切にしたいと考えています」と。そうなんだ。いま種⼦島は時代を担う若い世代を求めている。
つまり我々が新しい種⼦島の種⼦を撒く時がきたのだ。
新しいお茶のカタチ
⽇本⼀早い新茶でクラフトビールを
松寿園の新茶「松寿」は、種⼦島にしかない希少種。
極早⽣品種と呼ばれ、お茶の摘採が他産地に先駆けてもっとも早く3 ⽉中旬にはじまる。注いだ時は⻩⾦⾊で、ほのかに⾹るミルクともバニラとも感じられる⾵味と、他の品種にはない独特の⽢味が特徴だ。
我々はこれをビールにしたらどうかなと考えた。ほのかに⽢く、そうしてシャキッとした苦味が際⽴つ。そんなビールができるのではないかと。
新しい取り組みは⼤歓迎だと、松下さんも快く受け⼊れてくれた。
「⼈⼝減少はもうはじまっているし、若い⼈のお茶離れも進んでいます。放っておくとお茶の消費量が落ち込むのは誰の⽬にも明らかです。すると必ず品質の低下につながります。それは産地全体の死活問題です。だから新しい商品開発、新しい販路開拓は待った無しなんです」
新しい販路とは海外なのだ。
「本来は産地全体でやることなんでしょうが、こちらも独⾃で進めています。低農薬を徹底し国際的な安全基準をクリアして輸出のための認証を得ています。ドイツ、スイスでは松寿園のお茶が飲まれていますよ」
「しかし」と松下さんは⾔葉を継いだ。
「⼤切なことはどれだけ売れたか、どれだけ儲かったかということじゃなくて、お客さんの評価がちゃんとわかること。イベントで⼩さな⼥の⼦がおいしいと⾔ってくれたり、パティシエの⼈がうちの粉末茶でケーキを焼くと、⾊も⾹りもいいんだと⾔ってくれたり、そんな何気ない⼀⾔が頑張ってつくって、⾃分の⼿で売って良かったなと思えるし、仕事への励みになります」
松下さんが受け継いだ種⼦島DNA は確実に⾝を結ぼうとしている。
種⼦島⼤学は、松下さんの種子島DNAに学び種子島茶の知名度アップにつながる取り組みを進める⼀歩を踏み出した。⼀緒に種⼦を撒いて、⼀緒に咲かせ、⼀緒に実らせることを通じて、ヒト・モノ・コトに紡がれた種⼦島DNA を世界にひろげることになると確信している。